舌先のトアペイロン

幻燈 かがり


 舌の烙印を見せてから語ろうか? 食、それすなわち外界を自己の内へと飲み込むこと。とあるSで始まる生物学者によれば、生物の定義とは『内と外との区別を持ち、自己複製を繰り返し行い、自己構造維持のために自立してエネルギー代謝を行うものである』……つまりは混沌に崩れゆく自らの肉体を維持するために他の調和したものを食べるものだと、噛み砕いて言えよう。生きとし生けるものが何かを食らうのは生物の範疇にある時点では何ら罪に問われるものではない、何故ならばそれこそが生命の証明であるからだ。大地に根を張る植物が星を吸い上げるのも、地を這いずる虫が命をなめずるのも、空を往く鳥が束縛された命を狩るのも、野を駆ける獣が命を歯牙にかけるのも、ヒトが命を口に運ぶのも、すべからく当然のことなのである。ヒトの食事においては同種喰らいや麻薬など、種や社会の構造を脅かす食こそ禁じられてはいるが、それ以外の殆どの場合では命を食べることは自由だ。日常的に生きていたものを食べる。あたたかな命を飲み込む。本質的に、そこに一切の罪はない。ヒトが生物である限り、そこに一切の罪は見出してはならないのだ。動物の脳を食らおうが、虫一杯の椀を空にしようが、悪臭を放つ魚だった液体を味わおうが、個人の趣味趣向に過ぎないし、それがその人間が求めた調和なのだ。食べることは命が命であるための手段であり目的であり、また客観視されたとき自らが生きとし生ける者であると指し示すのと等しい。わらわが食べるのは、『わらわがわらわである』と自己認識する手段であり、更に世界を昇華するのと同義である。それゆえに、この舌に刻まれた罪科の紋様はわらわにとって装飾の意味しか持たない。  ――以上が、舌に暴食の烙印を捺された大罪人グルマリギア姫の言論である。かつて大陸に名を馳せた麗しき美食家の面影は外観にこそ残れども、前述の通りその精神に美食家の矜持は残されていない。面会窓越しにサヴァランの本を喰らってみせた彼女は、首に掛けられた枷と、両手を祈りの形に結びつける束縛の鎖を、デザートとして飴細工のように味わって微笑んだ。挑発か、或いは誇示のためか、熱により舌へと刻まれた独特な黒の紋様を余すところ無く曝け出した彼女の精神には改善の余地が無い。そう書記官と精神鑑定医に判断され、死刑の判決を下されたのは有名な話だ。判決後、数世紀が経過した現在でさえ暴食家グルマリギアの名は朽ちることなく、書籍や人々の噂話によって一層広大に伝播している……。美食美味は語るまでもなく、この星に存在する全ての食品をその舌で味わい、有史以来誰もが口にすることのなかった物質全てまでを味覚として知った彼女の存在は幾世紀経てども風化する気配がない。何故なら彼女は食によりヒトの範疇を抜け出してみせた唯一無二の存在であるからだ……たとえ、その実体が死肉屍になり変われども。 「……と、語り部が賛美をこの書物に記したのも、よもやこのラプラスの悪魔には旧知の事実であるのだろうか? レジムシフト、世界とは定められた運命に従って進行する予定調和の産物なのか? わらわはその解を欲する」 「はっ、グルマリギア様。ラプラスの悪魔はハイゼンベルクの不確定性原理によりその存在を否定されております。量子力学的原則に従えば、世界とは予定調和の産物ではない……そうこの書物に証明がなされております。どうか御賞味ください」  煌びやかな宮殿の輝きを背後に、目前で跪くレジムシフトは両手で一冊の書物を献じた。細い花のような手のひらでその本を受け取った彼女は、目下の彼に一瞥を与えもせず、古びた表紙をなぞりながら口角から僅かに舌を覗かせた。裏表紙と背を含めて、本の外観を舐めるように観察した彼女は、絢爛たる玉座に半身を寝転ばせたまま、古びた本を精読し始めた。アテナイ人同様に、グルマリギア姫も寝て食事をするのが常だった。金を基板に色とりどり豊かな宝石が象嵌された寝台形の玉座にて、肘をつき左側を下にして横たわる『アンキュビタシオン』と呼ばれる姿勢を基本として、好きなように食べる。大罪の刺繍が施された緋色の布を身に掛けて、自由な享楽と三大欲求を肴に味わう――これこそが『レクチステルニウム』の名を冠すアテナイ貴族式食事法だ。彼女が最も食欲を満たせる方法といえば、美食家からすれば怠惰しか思えない悪徳の姿勢がこの上ない。ページをめくるごとに、美しい笑みを浮かべるグルマリギア姫の食事を妨げぬよう、レジムシフトは己の存在を限りなく消失へと近づけた。沈黙の時間すらも奉仕すべく、過去を慮りながら。  グルマリギア姫の食事が、有形の物体を肉体へ摂取していたのも今や遠い昔の話。……目ぼしいものは何でも片端から食べた。この世に存在するものにまだ彼女が強い興味を持っていた時代。レジムシフトがグラ王家の使用人となった頃のグルマリギア姫は未知の味に飢え渇き、世界の全てを欲していた。彼女直属の執事として配属された彼に与えられた初めての命令は、このようなものだった。 『そなたが新しい使用人か、なるほど全く持って骨も無く貧相な肉体、食欲を極限まで削ぐ飢餓の肉体はわらわの下僕に相応しい。さて、名もなき貧民街の少年よ。わらわは今『死に至る猛毒』の味を欲する。海に住まうフグとやらは皮肉臓物に大量の致死毒を有すると風の噂に聞いた。わらわの為に、そちが献じてみせよ』  欲するものは食指を少し動かせば、直ちに下僕が持ってくる。それがグルマリギア姫にとって生まれながらに与えられた特権であり、世界の全ての味を知るために最も有効な手段であった。レジムシフトが当惑した最初の献上品は市場で容易に手に入るものだが、安全に食べるのは困難な程に毒の多い所謂『ゴミ』と呼ばれる品種のフグ。調理師の手を一切介せず、命ぜられるがままに皿に乗せて生きる毒を献じるのに少年はためらいを覚えたが、食物を目前にした姫君の笑みを目にすれば抱えうる全ての葛藤は霧と消えた。  まだ知らぬ毒を目前にしての艶然たる微笑み、白磁の如き肌に浮かぶ喜びの紅潮、口角から垂れる欲求の雫、食材を運ぶ死神の手、そして迷いなく毒を飲み込んだ小さき悪魔の口……。生唾を飲む音とともに、異性の双曲線を描く胴の内へと納められた毒に少年は嫉妬した。フグを身に取り込んだ彼女は、通常の人間に訪れる神経毒による無様な死を寝台の上で確かに味わった。医学書にある通りの死に様だと医者が断じるまで、生を失っていた彼女からレジムシフトが目を離せずにいたのもさほど不思議なことではなかったのかもしれない。現を夢と間違える、それほどまでの蟲惑を彼はこれまでの人生に味わうことはなく、その全てが彼女には備えられていたのだから。死の宣告と同時に、姫君が何事もなかったかの如く自然な振る舞いでハデスの膝元から帰りついた時、レジムシフトはくだらない自分の人生を捨てようと誓った。不死鳥の如く炎を身に浴びて蘇り、燃えるドレスの片翼を広げ『さて、次は何を食べようか?』と畏怖すらも覚える微笑を浮かべ焔を味わう姿態に、レジムシフトはそれまで培ってきた偏見の塊を投げ捨てた。数多くの従僕が日々絶え間なく食を献じる魔性の由縁、それを知ってしまえば彼もまた、人の所業を越えるのに時間はかからない。  世の果てにある異国の宝石、海の底に沈む過去の異物、血の繋がりにより守られた子供、美しい部位。法により守られた物も、倫理により守られた者も姫君の欲望を満たすためだけに躊躇なく手に入れる。棺に納められたばかりの死肉や正三角錐に納められた過去の王、純潔の花嫁やノアの一族のみが飲む美酒などは割かし調達しやすい未知の味だ。毒に溺れ死を味わい尽くしたグルマリギア、麗人や宝石など人の手に収まる財の全てを体内に融かしたグルマリギア。名は美食の姫君から暴食の姫君へと誉れ高く変わり称され、やがてより広大なモノと未知の体験を欲した彼女は下僕に新しい注文を思いつくがままに与えた。  黒いドレスを揚羽のように躍らせて『次は万里の長城が食べたいのう』と言えば、レジムシフトは『仰せのままに』と彼女に果てしない壁を献上した。壁を味わう合間にも、『次はケルン大聖堂が食べてみたいものじゃ』と呟けば、彼女が壁を食べ終えるまでにレジムシフトは『仰せのままに』と望みの品を用意した。その優秀な働きに初めて彼の存在を個人として認識したグルマリギアは、消化しか碌に知らない口から彼の名を生んで与えた。悪鬼下僕のレジムシフト――そう人々に呼ばれるようになったのも、崇拝するグルマリギアに与えられた固有名詞に狂気した彼が、完全に彼女に過去の名前を食べられてしまってからだ。  乞食は蛮族に成り上がり、求められるがままに世界の事物を略奪し彼女の御身にせっせと運ぶ。芸術品に価値を見出し美しきものを咀嚼するグルマリギア、世界の広大さに感動し自然を飲み込むグルマリギア。最早その生は世界の敵であり、何もかもが彼女の存在に恐怖したとき、彼女は舌先に感じる味覚への飽きに限界を感じ、それまで味わったことのないものを味わおうと思案した。 『さてレジムシフト、世界に点在する芸術や自然の殆どを今や喰らい尽くしたわらわだが、生まれてこの方、はたと味わいを忘れていたものがある。それは何か分かるかえ?』 『はっ、グルマリギア姫。僭越ながらもこの矮小なるレジムシフトが想像するところ、それは『味覚以外の感覚』であると存じます』 『そうだ、その通りである愚かな下僕のレジムシフト。わらわは天に生を受け賜わってからというものの、食にのみ価値を見出しひたすらにそれを追い求めた。しかし、食の窮理には味覚以外の繊細な感覚も必要なのだと、最近食していた芸術品や自然の数々に気がつかされたのだ……わらわの完成には、生きた感覚そのものが必要だ。それも飛び切り新鮮な……』 『されば、美しきグルマリギエ姫君は如何なる品をご所望でしょうか』 『……ふむ、わらわは核爆発をまだ肉体に浴びたことがない。銃弾や毒物、火刑や窒息は与えられたこともあるが、こればかりは未だ味わったことがない。レジムシフト、わらわの舌の上に核爆弾を落とせ。爆心地の衝撃と刹那の死、死の間際に思考するであろう命の迸りを、わらわは欲する』 『仰せのままに』  グルマリギエの願いを快く受け入れたレジムシフトは、あらゆる手段を講じてグルマリギエの住まう王宮に出来る限り大量の核爆弾を落とさせるベく画策した。数々の政府に侵入し、数多の社会に溶け込み、グルマリギエへの憎悪を種単位で高めるレジムシフト。時に、彼女へ収束するヘイトの根源が自分である事に涙を流すこともあった。――ああ、何たる至悦! 愛する主君のために、この星の文明が成せる最高級の破壊兵器を舌の上に運べる光栄。その想いを胸に秘めながら、彼は自分に与えられた権力と才覚の全てをもって、見事にグルマリギエ姫の舌先に百九十五個の核爆弾を投下させることに成功した。 『ああ、これが核爆発の味か! 閃光に殺される感覚に永劫の苦しみを覚え、深き傷跡を残した大地に影のみを残し掻き消える生命の苦しみ、なんて残酷な感覚だろうか! これこぞまさしく、人類が生み出した最悪の兵器に違いない! 苦痛と繰り返される死の恐怖、残る肉体に残されるおぞましき痕跡、まるで悪魔の兵器だ! こんなもの、わらわが食べつくしてしまうに限る……そう確信させる鮮やかな思考の羅列を感覚から覚えたのは、よもや何時振りのことであったろうか? 大儀であったぞ、レジムシフト。わらわはちいとばかし満足した……ゆえに、少しの間死ぬ。肉体を捨てて待っておれ』 『ありがたき幸せ! 仰せのままに、グルマリギエ姫! このレジムシフト、イデアへと姿を変え貴女様の復活を待ちましょう』  爆心地から、青天井の元に舌を曝け出して死んでいるグルマリギエ姫の死体と、刀により自害したレジムシフトの死骸が見つかるのにはそう時間はかからなかった。惑星の運命すらも大きく狂わせたグルマリギエ姫の死骸が世界最大の監獄に拘束され、舌に大罪の烙印を焼き付けられたのもこの『感覚の食事』が無ければ永遠に訪れない史実だっただろう。  さて、ヒトの形状に食の限界を覚え、肉体が肉体であることを捨てて美しき真理の姿に自己を転移したグルマリギエ。当に彼女はヒトにあらず、死刑判決を契機に天体と銀河の幾つかを食べれば、無限稼動のギロチンで肉体とあっさりとした別れを告げた彼女は、今や情報構造体としてこの宇宙に残存する。残存する、と語るのはいささか誤謬があろうか? 彼女は肉体を失って尚、生命としての定義を充分に満たしている。彼女は情報として内と外との区別を明確に持ち、情報として絶え間なく自己を複製し成長させ、世界に存在する調和した情報を喰らい続けているのだから。物質よりも、それを構成する情報に食指が動いたとき、彼女の食における美学は大きく変容したと断言できる。彼女は物体を吸収することに自己の保存を見出すのではなく、情報を吸収することにより自己の昇華を発見したのだ。だから彼女は知識を欲した。どんな財宝よりも価値のある、宇宙に根ざす公理を、文章の海に沈んだ過去の感覚を、宇宙を構成する法則の全てをその体内に包括してしまいたい。世界を食べ終えたとき、自分が始めてグルマリギエそのひとであると満足できるだろうと直感したが故に、姫君は古来未来の書物を貪り読み、食べた。  「……なるほど理解した、ハイゼンベルクの不確定性原理は美しいものだ。定められた結末がありえない世界、それはつまり、運ばれるフルコースを待つ喜びのようじゃ」  本を読み終え、静かに両手で書を閉じた彼女は、しばらくその胸に情報の塊を抱え瞳を閉じた。食事を終え陶酔する彼女の姿、これだけがレジムシフトの存在理由であったに違いない。まるで眠る少女のようにゆったりと背もたれに肉体を預け、無垢な微笑みを浮かべて味わいを反芻する……跪く自らのみが認識できる僅かな光景、その独占こそが彼を狂わせる理由でもあり、彼が生き続けねばならないと苦しみ悶える楔でもあったのだろう。  「さて、次は文学を食べようか、天文学を食べようか? 味わいの種は尽きることが無さそうである……レジムシフト、真理へと近付ける価値ある情報をまたわらわの元に持ってまいれ」 「仰せのままに、グルマリギエ姫」  無知だった彼女はレジムシフトが運んでくる良質な情報のみを食べ、瞬く間に宇宙に存在する原理の全てを理解しつつあった。証明を吸収し公理を食器として扱うのはテーブルマナー、新しい法則を導く過程はレシピとクッキング、未知を解明するのはグルマンティーズ! 舌先に運ばれ続ける書物と情報が枯渇寸前になった頃には、彼女は宇宙の全容を知り、高次の世界を正確に想像し、生物のメカニズムの全てをほぼ解明した超越の存在となった。果てしない情報の味に酔いしれた彼女は、そして純粋な人間が抱きうる大きな問題にさしかかった。他人の思考とは、どのようなものなのか? 他人の味わってきた人生は、自分のものと比べてどのようなものなのか? どう世界を味わい、感じるのか? それは人が未だに知りえない、大きな未知のひとつだ。  「というわけでレジムシフト、わらわは他人の感覚を我が体内に欲する。わらわが考えるに、生命とはあくまでも物質依存の構造体であり、精神はその物質が成す相互作用――つまりは極限まで細分化した世界の関係性により成立するものだと考えている。わらわやこの宮殿が情報として存在し続けるこの大海の果てにおいても、わらわは恐らく三次元よりも高次の空間において物的存在をしているはずなのだ。それはレジムシフトよ、人の肉体を遠い昔に投げ打ったそちにおいても同じことが言える。――とどのつまり、わらわは他人であるそなたの人生全てを欲する。そなたが生まれてから現在に至るまでの人生の全てを、主観的に余すところ無く話せ。その人生は周囲の社会環境や、刹那的な感情の揺らぎまで、そなたが感じた全ての感覚が無ければ完全な同一として成り立つものではない。仔細まで、わらわに包み隠さず正直に話すのだ」 「……私の人生の、全て……ですか? ……それが、貴女様が真に望みうるものならば、このレジムシフトは喜んで差し出しましょう」 口上ではそう語りつつも、この時のレジムシフトにはそれまでに無い露骨な迷いがあった。まるで猛毒のフグを差し出したときと同じように、自らの選択を正しいものか考えあぐね、その瞳を視線から逸らした……それは感情無き生命には成しえない、意味のある行動だったろう。しかし、レジムシフトが暴食の姫君に与えるのは何時だって「仰せのままに」の言の葉と、彼女の望みうる何もかもだった。 「……なるほど、そうして貧民街での惨めな生活を終えて、初めてわらわの膝元に来たのかえ。ここに至るまでに何百年の解説を要したものか、何十分の一にも満たない僅かな時を語るのに、そちは言葉の限界を覚えたと見える。して、わらわの外見を初めて目にしたそちはその心に何を感じえたのか? 今までと同じく、ここからも一切の偽り無く全ての瞬間を語り続けるのだレジムシフト」 「……一目見たときは、ただ美しいとだけ思いました」 「……その断言は偽である。そなたがあの瞬間に感じたのは、そんなに単純な思考のみではなかったはずだ。これまで話し続けたように、劣情も痴情も憤懣も悲嘆も想像も、全ての感覚と思考を等しく包み隠さず、このわらわに献じろ」 「……正直に申せば、それと同時に、あなたを殺してやりたいとその時思いました。そして……」 「そうだ、それでよい。わらわはそちを書物として認識している。何も恥らう必要もない、ただ事実のみを克明に与えろ。それがそなたにとって苦痛であるならば、それも後でじっくりと聞くことになろう。わらわがそなたの声に耳を傾ける喜び、ありがたく受け取るが良い」 「……ありがたき、幸せ」  それからレジムシフトは人間として過ごした人生の全てを、姫君の命じた通り完全な形で伝え続けた。何度も繰り返し行われる考証と細分化された確認の繰り返しは、やがて狂人と化していたレジムシフトの心を壊したのも無理はない。レジムシフトは、自らの人生の全てを情報として献じ終えたとき、精神としても死を迎えた。 「……なるほど、レジムシフトの人生と感覚はこのような情報により構成されていたのか。この思考の法則と感情の揺らぎの根源を突き詰めれば、わらわはやがて他者の心の全てすらも目を瞑りながらも完全に計り知れるだろう。大儀であったぞ、レジムシフト」  物言わぬ傀儡と化したレジムシフトを抱いた後、グルマリギエ姫は彼の残骸を平らげた。孤独になった彼女は、やがて自らの予言通りに他者の心の成り立ちを完全に知った。ヒトであるうちは不可能だったろう難問を解決し終えた彼女は、それからも宇宙に残る謎のすべてを解き続け、食べつくした。――そして、最後にたったひとつだけ、分からないものが真っ黒な空間に残った。 「――わらわとは如何なる存在だろう? 自我、わらわが存在する限り永遠に持続する概念。わらわは、この最後の未知を解き明かし食べたい。わらわのメインディッシュは、わらわの存在そのものが相応しい。そしてこの世界の全てはわらわの体内に還るのだ。わらわこそが、真理と称される宇宙に相応しい」  それからというものの、グルマリギエ姫は今までに得た情報の全てを用いて、自らを客観的に分析し続けた。悠久の時間軸上で、自らの人生を、感覚の全てを主観無く分析し続ける。時間は無限にあるのだ、解決の日はいつか必ず訪れる……この世にわらわが味わえないものなど存在しないのだから。しかし暴食の姫君の予想に反して、狂気に満ちた思考のパズルは、考えれば考えるほど難解になっていく。  「――自我が、切り離せない! わらわの思考は科学的に客観的と証明できても、わらわが思考する限り主観に他ならぬ! わらわの自我は、わらわの存在に根幹的に結合している。仮にわらわのみがこの世界から隔絶されており、何物かにより思考を出力される機器だったとしても、わらわにはそれを確かめる術が無いのだ! なぜならわらわの思考は、暴食の姫君グルマリギエという情報として存在し、別の存在になりかわり、真に満足できる客観の領域に踏み入る観察が不可能であるからだ! レジムシフトの人生を理解した、レジムシフトの感覚の全てを理解したと思っていたが、それもまた主観が生んだ虚構に過ぎないのかもしれないだと! たったひとつの客観を食べてしまったわらわに、それを確かめる術も無い……わらわは、自我を食わねばならぬというのに!」  グルマリギエ姫は発狂寸前の苦しみを味わいながら、自らの意識を如何に第三者の目で観察できるかを実験し続けた。されども、考えれば考えるほど、自我は自らの存在そのものに結びつき、彼女の完全な理解を不可能にする。新しい事実や可能性を知れば、そこに新しく『未知を知ったグルマリギエ姫』が生じる。自らが未知を知ったことを認識すれば、また新しく『未知を知ったグルマリギエ姫を知ったグルマリギエ姫』が生じる。神の視点を試みれば『グルマリギエ姫の主観を客観視するグルマリギエ姫』が生じる。主観においては語るまでもない。無限に続く、自我の増幅。無限に思考し広がり続ける情報は時折無に帰りたいと叫ぶような爆発をその中に生み、無限に縮み続けることで自我を圧縮しようと試みるなど、思考の膨張と収縮を永遠に繰り返し続けた……。舌先に無限が築かれる。途方も無い時間に気づきながらも、暴食の姫君グルマリギエは舌先に味わえない最後の未知を、食し続けているのである。    (終)